甲冑の歴史

タイトルが甲冑の歴史で、なぜの歴史ではないのかと不思議に思われる方がほとんどではないでしょうか。
厳密には、大鎧・胴丸・腹巻・当世具足などを総称して甲冑と呼ぶからです。それぞれの甲冑の特徴などを交えて背景となる時代なども述べてみたいと思います。

古代の甲冑

奈良時代までの甲冑は、大陸文化の模倣時代でした。中央アジアに埴輪が着装している桂甲(けいこう)
桂甲の画像、東京国立博物館のホームページを別窓で開きます
に類似した甲冑が知られています。
日本には遺物がなく、埴輪で当時の武具の形態を知ることができます。

大鎧の出現

平安時代になると、戦闘方法にも変化が生じ従来の徒歩戦から騎馬で弓を射る戦法が発達し、純日本的な大鎧が出現しました。ちなみに「
鎧の画像、広島県教育委員会のホームページを別窓で開きます
」と「
鎧の画像、広島県教育委員会のホームページを別窓で開きます
大鎧
」は同義語です。
すなわち下部の草摺が前後左右四間に分かれ、正面には弓の弦が引っかからないように弦走韋(つるばしりがわ)と呼ばれる鹿韋が張られ、後面には逆板(さかいた)と呼ばれる袖の調節装置がつきました。
 初期の鎧は威(おどし)の編み目も粗く、兜の巖星(いがぼし)も一つ一つが大きく、全体に豪壮な感じがします。

大鎧の発展

鎌倉時代の鎧は編み目も細かく、兜の星も小さくなります。何よりも特徴的なのはその色彩です。
写真は紫裾濃(むらさきすそご)というとてもきれいな配色です。下に行くほど濃い色にすることを裾濃(すそご)といいます。
つまり、実用というよりはむしろ武将の晴れ着なのです。この頃の鎧は染色技術も発達し、競って鮮やかな鎧を作らせたようです。
魔除けの色である赤を、兜の吹き返しの周り、袖の下部の菱縫い、草摺下部の菱縫いなどに用いているのも大鎧の大きな特徴です。

完成度をさらに高めた大鎧

鎌倉時代末期になると彫金技術も高くなり、袖や草摺に豪華な金物を配した美術工芸的な鎧
鎧の画像、青森県櫛引八幡宮のホームページを別窓で開きます
も出現しました。
青森県櫛引八幡宮の赤糸威鎧と奈良県春日大社の赤糸威鎧は国宝鎧の中でも豪華絢爛さでは双璧です。金物は青銅の塊を彫りくずしという技法で削って文様を出し、金メッキしてあります。当時のメッキは鍍金とよび、水銀に混ぜた金を青銅に塗って水銀を蒸発させたもので古代よりある技法です。
金箔は使っていません。金箔は木材や紙に金色を出すために用いられ、建造物や屏風などに用いられ、金属には昔から鍍金が使われました。

完成度をさらに高めた大鎧2

南北朝時代の鎧は、兜の星はさらに小さく細かく、編み目も非常に細かくなります。
兜のしころ(後ろの部分)は水平に近く開くようになり、四つの草摺の端は「ため」(湾曲)が入るようになります。
この時期に美術工芸品としての鎧は頂点を極めます。以降戦闘に重点が置かれ、美術的価値は徐々に失われてゆきます。
余談ですが、節句に使われる多くの兜には正面に龍がついていますが、実物で龍のついている兜はありません。鍬形(くわがた=角状の部分)さえない兜も多いのです。

軽便な胴丸

鎌倉時代の胴丸
胴丸の画像、青森県庁のホームページを別窓で開きます
は、武将ではなくもっぱら徒歩の士卒が着用しました。正面の弦走韋は省略され、動きやすいように腰下の草摺は八間に分かれています。
着方は、鎧が右脇草摺とつながった脇楯(わいだて)をはずして着用するのに対し、胴丸は右脇を引き合わせて着用します。

腹巻・腹当ての出現

時代が下ると、財政的な面からも鎧の製作は困難になり、前述の胴丸や腹巻が多く見られるようになります。胴丸との相違点は胴丸が右引き合わせなのに対し、腹巻・腹当は後引き合わせになっているところです。
腹当は腹巻をもっと簡単にしたもので胴の部分だけです。

当世具足の展開

戦国時代になると、奇抜なデザインの当世具足
当世具足の画像、東京国立博物館のホームページを別窓で開きます
が主流となります。美術的感覚は卑俗化し、敵を威嚇するのに適した甲冑です。
お城や多くの博物館にあるのがこのタイプで、気持ちの悪いイメージをお持ちの方も多いのではないでしょうか。