それは1927(昭和2年)の早春、アメリカと日本の子供たちを結んでこれまでにない国際交流が実現しました。
アメリカから1万2千体あまりの「青い目の人形」が日本の各地の小学校や幼稚園に1体づつ配布されました。 これは当時大正天皇崩御のあと年号が昭和に変わり、経済的不況が深まり思想の取り締まりがきびしくなりはじめていた頃でした。アメリカでは日本人移民排斥などの反日情勢が深刻になり、日本人移民を締め出す「新移民法」が議会で可決されていました。 これに対してアメリカの一部の人々は苦境にある日本人移民に同情し、この危機を両国民相互の理解と親善によって好転させたいと考えていたひとつの方法で友情の人形交流という事が実現したものです。 先の春に贈られてきた「青い目の人形」に対し日本からは日本を代表する市松人形を贈ろうということになり、当時の小学生から一銭という募金をいただいて、そのお金で東京や京都の一流人形師が58体の市松人形を制作しました。アメリカから来た「青い目の人形」は日本のひな祭りを目指して送られて来たので日本からはクリスマスまでに間に合わせたいと短い時間でしたが急ぎ制作し、この年の秋にアメリカ各洲に親善大使として送られ分配されたのが答礼人形というものです。 初代松乾斎東光は、58体のうちの12体を制作し日本の代表として名付けられたミス北海道・ミス山形・ミス富山などがあります。当時制作を担当した人形師は現在では廃業したものが多く、当時からの伝統・技術を確実に受け継いでいるのは私どもだけだと思います。 |