時を語る人形たち、雛人形..笛畝人形記念美術館収蔵品
人形を芸術の一分野として確立するために、情熱を傾けた西澤笛畝。その笛畝の意志を継いだ長女豊水(日本画家)が逝去20年を記念し私財で建設した『笛畝人形記念美術館』の貴重な収蔵品をご紹介します。
(※笛畝人形記念美術館は閉館いたしました。現在、収蔵品の公開は未定となっておりましてホームページ上でのみのご紹介となります。どうぞご了承下さい。)
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 天児(左)と這子
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天児(あまがつ)は案山子に衣裳を着せた形で、這子(ほうこ)は縫いぐるみのようになっているが、もともとは、天児も這子も同義で、現在天児と称されるものの形をした這子や、その逆に縫いぐるみ形式の天児もあった。平安時代には葬送の「形代」だったが、室町時代になると子供の災いや穢れを負ってくれる身代わりとして流行した。江戸時代には天児を男雛、這子を女雛に見立てて、桃の節句にお雛様と一緒にお祭りした。
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 寛永雛
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寛永(1624〜1643)年という年号を呼び名につけているが、実際には慶安(1650)年前後の雛人形と思われる。雛祭りのルーツ東福門院の作らせた雛は、寛永雛より座高が低く、面が丸顔の室町家の雛(一対のみ神戸滴翠美術館に現存)に近かった。寛永雛は衣裳や面など荘厳に見えるよう工夫されている。いずれにしても初期の雛人形は、「ひいな」の名残をとどめ、小型であることが特徴のひとつである。
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 享保雛
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大型の優雅な雛人形である。寛永雛が実際の年号と一致しないように、享保雛も必ずしも享保年間に製作されたものとは限らない。寛永雛がさらに改良され、元禄雛を経て、1700年頃より徐々に大型化してきた。将軍吉宗の治世には、雛が優雅になりすぎ、豪華なものは製作禁止となった。享保の改革の流れと合わせると、この享保雛は吉宗の将軍就任前から製作されていて、禁止令を表向きには受け入れながらも、地方大名の間では、大型で雅な雛人形が流行したのである。1750年頃全盛期を迎えるが、高倉雛や次郎左衛門雛、古今雛の登場とともに影が薄くなって行く。
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 有職雛
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有職雛以前の、享保雛などの男雛の衣裳は、狩衣の束帯風のスタイルで、女雛は五衣の重ねに紅の袴で、公家風ではあったが、公家装束を正しく反映していなかった。朝廷の衣裳担当と山科家、高倉家が有職故実にのっとり、1755年頃に正確な装束を雛に着せたものが有職雛の起こりである。
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 古今雛
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1765年頃「雛市」で有名な江戸十軒店の人形師・原舟月が考案製作した雛で、有職雛を模倣しているが、女雛は享保雛のように宝冠を載せている。この時代は様々な雛の形成された時期で、有職雛が公家、次郎左衛門雛は武家中心に用いられ、古今雛は大店など金持ち階級に好まれた。
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 親王雛
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形式的には有職雛である。衣裳も女雛の髪のおすべらかしも、総て有職雛を反映しているが、形が享保雛のように大型で華やかさが強調されている。今日飾られる雛人形の原型となっている雛である。
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