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日本人形の系譜−人形の生成と宗教性−..西澤形一

人形は古くは「形代」と呼ばれていた。子供の遊戯具として人形は存在しているが、その一方では宗教行事と密接に拘わりを持つ存在でもあった。ここでは、後者の歩みを展開してみよう。原始宗教では「形代」自体が人格化され、礼拝の対象となったものと、人の身代わりとなる埴輪や「ヒトガタ」などとに大別できる。私達が馴れ親しんでいる雛祭りの起源は、宗教的意味合いを持ち、大別した二面性の中にその特性を継承している。今日見られる雛祭りは江戸初期から行われた。1616年、幕府はそれまで宮中で行われていた風習の中から五節句を選び、祝うことを定めた。七草、桃の節句、端午の節句、七夕、重陽がそれである。七草を除く節句は、すべて三月三日、五月五日のように、縁起が良いと言われる奇数の重日におこなわれた。

『西洞院時慶卿日記』によると、1629年の桃の節句に、時の帝、後水尾天皇の中宮、東福門院和子〔徳川秀忠の姫〕が、我子、興子内親王〔明正天皇〕のために男女一対の人形を飾り祝った記述があり、これが最初の雛祭りと考えられる。桃の節句は中国の古習、「上巳の祭」に由来する。三月の初の巳の日、人々は水辺で「ヒトガタ」に己の災いや罪を着せ移し川に流し、悪鬼を払う力があると信じられている桃から作られた酒を飲み、一年の無事を願った。我が国にこの風習が渡って来たのは奈良時代のことで、平安貴族の間では曲水の宴がこの日に行われていた。歌人、大伴家持は、

漢人もふねを浮かべ遊ふとふ 今日そわが背子花鬘せな〔萬葉集、第十九巻〕

と、詠んでいる。750年三月三日のことであった。現在も鳥取地方に残り、毎年旧暦の三月三日に行われている「流し雛」は、上巳の祭の継承と考えられる。

雛は語源として「ひいな」から出ている。「ひいな」は平安の女流文学『枕草子』『源氏物語』『蜻蛉日記』などに登場する男女一対の人形で、官女たちの手作りだった。『蜻蛉日記』には「ひいな」の衣裳を作る記述があり、『枕草子』〔146段〕ではかわいらしい人形であったことがうかがえる。男ひいなを愛しい人に見立て飾ったり、女ひいなを自分に見立て夢を描いたりした、平安貴族の雅が想像される。


「ひいな」と言う言葉は『契沖雑記』によると、大きなものを小さくする意味だとしている。鳥のひなが「ひ・ひ」と鳴く所から来たと言う説もあるが信憑性はない。男女一対の「ひいな」の原型は、宮中の三条殿の簾にかけた厄除けの神である。この神を「ひいな」と呼んでいた。多くの道祖神が相対であるように、男女一対は不思議な力を持つとされている。性と生命の神秘が示すように、日本の神話の重要な部分のひとつを占めている。


男女一対の神は町々の街道の入り口に立てられている「岐神」と同一であり、あの世とこの世の境でこの世を守る「塞の神」のことである。古くは災いはあの世からもたらされると考えられていたのである。


天児(あまがつ)左と這子(ほうこ)
天児(あまがつ)左と這子(ほうこ)(笛畝人形記念美術館収蔵品)

あの世からの災いに対して、死者にこの世の災いをあの世にもっていってもらう風習が、やはり雛の原型のひとつである「アマガツ」にある。「阿未加津」と書かせ、「アマガツヒヒ」の音訳とおもわれるが、この風習は、兄弟親族が死去すると「形代」を作り、災いを移して柩に納め黄泉の国に災いをおくる儀式であった。「アマガツヒヒ」は『類聚雑例』と言う平安時代の儀式書に記載されている。

さて葬送の「形代」であった「アマガツ」は、室町時代になると子供の誕生に際して用いられる子供の厄を負うものと変わってきた。漢字では「天児」と当てられ、室町時代の『仙源抄』によると、災いを負ってくれる「形代」で、三歳まで用いると記されている。やがて男子の場合は元服まで用い、感謝の念を込めた儀式の後、焼いて灰とし、土に帰した。女子の場合は嫁ぎ先に持参し、子供の誕生まで用いたようだ。

また「天児は這子ともよばれ、「孺形」とも呼ぶ」と『御産の規式』と言う同時代の文献に記されている。今日、「天児」、「這子」は、前者がデクに着物をきせた案山子のような形、後者が縫いぐるみの形とはなっているが、意味合いは同じであり、武家には「天児」が定着し、庶民の間では「這子」が定着したのであった。江戸時代に雛祭りが公家、大名家で一般化してからは、「天児」を男雛、「這子」を女雛に見立てて飾るようにもなった。


平安の「ひいな」は「ひいな遊び」と言われるが、この「遊ぶ」は神を祭る意味が含まれていた。次第に宗教行事の中に娯楽的要素をもつものを「遊び」と言うようになったのである。

村祭りに欠かせない神楽も、元々は「遊部」に属する人々によって行われた。神楽は、高貴な身分の人が薨ると、黄泉の国への旅立ちを一時はやめ、蘇るように楽を奏でた。蘇らないと解かると、その霊が祟らぬよう、生前の偲を忍んだ物語や舞を賑やかに行った。これが殯(かりもがり)であり、殯の為に建てられた館を殯宮(ひんきゅう)と言う。殯は半年近くに及んだが、中には二年もの間行われる場合もあった。『古事記』の岩戸開きの伝承も殯であったとする説もある。

祭が現代においては、氏神を中心とする地域社会の共同体意識と社交の場であると同じように、古代でも宗教行事は娯楽と結びつき、主体である宗教性は次第に客体化していった。「ひいな」も「天児」も「ヒトガタ流し」もこのようにして、生活文化と密着したものとして存在するようになってきた。


前記の通り、桃の節句にいわゆる雛人形を飾った背景には以上のような大きな風俗的柱があったことと、最後の公家文化と言われた寛永文化の美の哲学があったからなのだ。

寛永文化の中心人物、反骨の帝後水尾天皇は、当時一流の文化人であり、後水尾サロンには、彼の文化的交友関係者である狩野探幽、俵屋宗達、尾形光琳など名高い人物が出入りしていた。東福門院自身も、今風に言うならファッションデザイナーでもあったので、雛人形に着せる衣裳は、人形のサイズにあわせて特別に文様をデザインし、その道の達人によって製作された。


嵯峨人形
嵯峨人形(笛畝人形記念美術館収蔵品)

「ひいな」は手製が殆どであったが、ここに人形師と言う新たな職業を生む土壌ができあがった。雛人形より若干古く嵯峨人形がつくられていたが、室町時代の人形は、仏師、彫刻師の余技に作られ、専門職ではなかった。人形の呼称は室町時代に登場するが、人形師という専門の職業は、江戸期のことである。

慶長仏に代表される華やかな色彩の彫刻は、室町時代、蛎の貝殻を砕いて粉にして作られる胡粉が輸入されたからであり、人形にもこの技が十二分に活用された。桃の節句に雛を飾る風習は大名にも流行し、こぞって優秀な人形師を召し抱え、自家の雛を誇るようになった。雛の技法は言うまでもなく、衣裳人形など他の人形を生み出し、華やかな人形の時代が開花した。

宗教性をもった人形は鑑賞用の要素をもち、鑑賞のための豪華な人形が作られるようにもなった。豪華な衣裳を着て、能や市井の風俗を題材とし、立体感ある美術品として人形は歩きはじめたのだ。一方では庶民の間にも雛祭りは流行し、人形を飾る習慣も出てきたが、庶民は素材に土や紙を使用した。やがて、この土人形や張子人形などは、名産品として収益をあげたために、藩で力を入れた例もあった。これらの人形は、今日、郷土人形として残っているものも少なくない。庶民はそれなりに知恵を絞り、郷土性豊な作品を生み出したのである。


人形は時代、地域、風俗などを反映させているので、立体的な浮世絵といわれている。浮世絵が民俗学資料に不可欠の存在であるように、人形もまた同じである。大店の御内儀や奥女中が、好みの役者の顔に似せて作らせた似顔人形などからは、歌舞伎役者の人気や好まれた芝居などがよく解かる。また同じように、「若衆」の人形があることから、陰間遊びの流行も推測される。

優雅な大人の人形遊びは人形師の技術向上に正比例し、今日優れた人形を生んでいる。人形や玩具なしに育ってきた者はおそらくいないだろう。成長する過程に占めるこの役割は大きい。そして日本人は人形に特別な感情を、無意識の中にもっている。日本人の精神文化の中に継承された人形の役割を認識し、情操教育に役立てることは、物質優先の現代社会に何かを問う一石になるだろう。

西澤形一
日本人形玩具学会運営委員・研究委員長
著書「日本人形の歩み」他。専門「宗教学」

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